ビジネスパーソンにとって、経営学の理論はどう仕事に「役立つ」の、という問いを巡る対話と、もちろん、それも大切だけれど、考えることは楽しいよ、楽しもう、というメッセージ

話し手
筑波大学大学院 システム情報工学研究科 生稲史彦准教授
聞き手
株式会社解ける問題(WEB経営学講座WATNEY運営) 代表取締役 長地一紘
インタビュー

「答え」を欲しがる人は多いけれど

長地 : 僕の個人的な感想なんですが、経営戦略の授業を、たとえばビジネスパーソンがWATNEYや大学院で受けたとして、理論の理解自体は比較的しやすいのかな、と思うんです。

ただ、そういったアカデミックな経営戦略よりも、世間によくあるような「明日使える」とうたっているものの方が、結局はウケがいいといいますか、どうしても答えを欲しがる人の方が多いのかな、というのがあって。

僕も企業の中で営業をやっていた時の経験からも、心情的には非常に理解できるんですけれど。

企業の中のビジネスパーソンは、その時その時で、自分の意思とは関係なく、上から降ってきた目標や課題とかがあるので、本を読んだり、勉強したりする熱心な人はかなり熱心にすると思うんですけど、どうしてもその時の課題に対する答え探しの勉強、検索みたいな色が強くなってしまいがちだと思うんです。

それで、そういうものをビジネスパーソンが求めているからこそ、そこにジャストフィットするように見えるものの供給が、当然出てくる。多分、そういうもののうちのほとんどは役に立たないと思うんですけれども。

生稲 : 僕が言うとトゲがありますけれど、長地さんは優しいですね (笑)。

長地 : 「こうやれば必ず売上が上がるんだよ、利益が出るんだよ」みたいなものは世の中にいっぱいあると思うんですけども、そういうものと、アカデミックな経営学の文脈はちょっと違うのかな、というのがありまして。

生稲 : そうですね。経営学の研究ではそういうことはあまり言いませんね。

長地 : 前置きが長くなってすみません。

結論をいうと、「アカデミックベースの経営学の理論を、ビジネスパーソンの心持ちとしては、どういうふうに学んでいけばいいのか」とか、「どういうふうに仕事に活かしていけばいいのか」みたいなことをお聞かせいただきたい、というのが本日の趣旨なんです。

生稲 : はい、分りました。まずは理論の意義、とかですね。

一つ目 : 理論の枠組みで、雑多な事実が整理しやすくなる

生稲 : 「理論が何の役に立つのか」といったときに、まず一つあるのは、既存の理論の枠組みを使うことで、事実の整理がしやすくなる、ということかな、と。

ちょっとこれは話が前後するかもしれないですけれど。研究者にとっての理論の意義を話しましょう。

研究者の世界でも、事実はたくさん集めているんだけれど、羅列している感があって、それをちゃんと上手くまとめられないという課題に直面することがあるんですね。つまり、集めた事実を理論で整理できていない状況。

そういうことに、実務の方はもっと直面しやすいのかな、と思います。すなわち、自分の会社で、もしくは会社の中のプロジェクトとか業務の中で、毎回違ったような問題とか現象を見ている気がしているんじゃないかと思うんですよ。

たとえば、同じ営業マンでも、お客さんが違えば違うものが出てくる。たくさんのいろんなお客さんがいて、お客さんごとにこんなことが起きたっていうことを、毎回、経験とともに積み重ねるんだけれど、それを積み重ねても、結局なにが大事なのか分からない。だから、残念ながら毎回毎回、一人一人のお客さんの一つ一つの課題に対して頭を絞るしかなくなってしまう、というのが、いわば、「現実に囚われ過ぎている」ということで。

そういうのが、僕も含めて事実を集める実証研究をやっていたり、もしくはビジネスパーソンが仕事をしている中で、現実に直面する、悩みの一つじゃないかな、と思うんです。

そのときに、たとえば、マーケティングの4つのPとか、Five Forces ModelとかSWOT分析みたいなフレームワーク、もしくは、経営戦略論とかResource Based Viewの概念なんかを使うことで、整理しやすくなるという部分が、かなり大きいのかな、と。

つまり、事実=ファクトの整理。自分が集めてきたファクトの整理。それが研究目的であれ、業務目的であれ、日々いろんな経営の現象に接するわけですから。その接したものを一個ずつ考えて、一個ずつ処理する、対応するんじゃなくて。それをまとめて考えるというか、貫いて考えるものを持てた方が、自分の目の前の現象を説明したり、自分の中で対応策を考えたりするときに効率よくできる。事実を整理して、それを踏まえて自分なりに考えるときに役立つんじゃないのかな、というふうに、僕は思うんですね。

だから、我々もそうなんだけれど、理論を学ぶとき動機の一つは、集めた事実を整理するためだと思います。目の前の事実や現実をどういうふうに整理するとなるべく破綻がなく、かつ、できるだけ分かりやすく系統立てられるのか、ということを、だいぶ考えていますよね。

事実の整理に理論のフレームワークを使う、研究での具体例

生稲 : 僕自身の研究に関して言うと、ゲーム産業を中心にいろんな会社のお話をうかがったり、アンケートをお願いしたり、もしくは出てくる製品の変遷だとかを見て、研究をしてきたんです。

たとえば、事例研究なんかは典型的にそうなんだけれど、一つ一つの事実、たとえば「A社はこうで、B社はこうで」というふうに考えても、結局「いろんなことをやっているね」としか言えない。実際、企業に伺ってインタビューさせて頂くと、「うちは他社さんとは違っているんで」と言われることも多いんです。

でも、そこに理論と概念があると違ってくる。たとえば、教科書的に言うと、開発の場合は「コンセプト創造」に始まって、「コンセプト創造→概要設計→詳細設計→テスト」みたいな、そういう流れがあるんだということが従来の研究で言われている。だから、そうした言葉、つまり概念や教科書的なテンプレートを一つ持っているだけで、「A社でやっていた、あの人が言っていたこういう最初の数ヶ月間って、コンセプト創造だったんだな」と。「それはB社でいうと、それに1年かかっていたんだな」とか、という感じで整理して、比較が可能になる。

そうやって整理して比較してみると、コンセプト創造に掛ける期間の長さはあまり大事じゃないかもしれないけれど、コンセプト創造という活動としてゲームソフトという製品、作品を、どういうふうにしてお客さんに買ってほしいのか、選んでほしいのか、ということを定めるということを、最初にまずやっているということが確認できる。

それがA社でもB社でも共通して見られるということが、少なくとも自分が聞いた話や読んだもので確認できているな、と思いながら研究という活動を進められる。そういう意味で、会社ごととか、プロジェクトごとに違うものを、束ねるような言葉とかフレームワークというのを提供してくれるのが、まさしく理論を勉強しておく意義。

二つ目 : 整理するから、次が見えてくる

生稲 : 理論を学ぶことによって、目の前でどんどん発生し、自分が取り組まなきゃいけない問題を、まずはきちんと整理できる。

整理ができて、過去にあった、似たような仕事とか、もしくは共通点がありそうなものが見えやすくなる。たとえば今の例でいうと、「コンセプト創造」と名付けたときに、じゃあ、他の企業とか、他の産業とか、あるいは他の研究や論文とか、雑誌記事とかも含めた二次資料で書いてある「コンセプト創造」とどう違うんだろうな、というように考えが進む。そういう共通点とか差異を見出すような問いが立てやすくなっていく。

最初の問いである「理論が何の役に立つのか?」といったときの、二つ目としては、整理するから、その整理に基づいて、どこの何を調べればいいか、とか、どういうポイントに絞って比較すれば良いのか、とか、次はどの内容を自分なりに考えればいいのか、みたいなことが見えてくるということがあると思うんですね。

理論をそのまま使えるわけではないが、抽象度を上げることで見えてくる共通性がある

生稲 : そうしても、たしかに現実には教科書通りの「コンセプト創造」なんてないとは思うんですが。もしくは、教科書通りの脅威とか、競争環境の中の機会なんてすぐには見つからない。だから、理論を教科書通りそのままは使えないんですけれど。

そう分かっていても、あえてそうやって、一回抽象度を上げてあげることによって、目の前の個別的で、具体的なものに集中しがちな目を逸らすことができる。

逸らすから、俯瞰的に、結構一つ一つがバラバラだと思っていたけれども、実は同じようなことが繰り返されている部分があるな、ということに気づける。もしくは、同じものが前にもあったな、と気づける。

三つ目 : 理論によって将来の見通しが立つ

生稲 : そうすると、次の新しい現象とか、仕事が出てきたときに、「多分こう言うことが起きるんだろうな」っていう、予測とまではいかないけれども、見通しといったらいいかな。見通しが立てられるようになる。

なので、一回あえて使えない方向、と言ったら良くないですけれど、抽象度を上げるような理論の方に持っていくことを試みる。それで、理論の言葉を使って、いろんな場面で過去を見直したり、将来を見通したりする。そうしたときに、今までとは違うという意味で、有用なものの見方ができる、というのが理論の効用の三つ目なんじゃないかな。

理論を使うことで、思考の「手抜き」ができる

生稲:だから、変な言い方をすると、研究者の方がよっぽど手抜きなんですよね。いろいろと聞いて、この会社ではこれがあって、あの会社ではあれがあって、このプロジェクトではこんな問題があって、と聞くんだけれども。そういうことを聞きながら、理論を使って、言葉を概念に置き換えながら、少ない概念で事実が説明できるようにしている。

たくさん聞いていく中で、「なるほど、今この人は『コンセプト創造』の話をしているんだな」って、頭の中で勝手に捨象している。結果、「多分こういう話をするんだろうな」とか「論文に書くときにはこういう風に使えそうかな」という見通しを立てながら、自分は話を聞いているんですよね。

フレームワークを使い、フレームワークを再構築する

長地 : そうすると、ちょっとビジネスパーソン向けよりも、一段階より高度なことかもしれないんですけれど。

研究者の方からすると、フレームワークで整理しつつ、そのフレームに当てはまらない部分、そのフレーム自体を見直すみたいなことが、重要になってくるんですかね?

生稲 : そうですね、研究者はそれが「仕事」というか。フレームワークや理論を見直し、作り直すことが、研究っていう活動の大事な要素だと思うんですけれど。

ただ僕は、実務の方にも同じようなことが当てはまると思うんですよ。

たとえば、うちの講義で、学生さんに経営戦略分析をやってもらうんです。で、見ていると、真面目な学生さんって、SWOTとか、Five Forces Modelとかのフレームワークに、現実を綺麗に当てはめるんですよ。で、「全部説明できたから完璧ですよね」って言うんですけどもね。

ああいうフレームワークは、もちろんそういうふうに使ってもいいんですけれど。しかし、フレームワークのどこにも当てはまらない部分が現実にはある。本当はあるはずで。

理論からはみ出すところこそが、むしろ大切

生稲 : フレームワークで現実を整理してみて、それに当てはまらない部分、説明できない事柄に目を向けるのが、当てはめることよりも大事じゃないかと。

たとえば、ちょっと前に、スマートフォンという新しいデバイスが出てきましたが、それまでのファミコンとかプレイステーションとかのゲーム機とは違うので、ゲーム会社にとって、それがいわゆる川上なのか、川下なのか、それとも、補完的な財なのか、フレームワークに当てはめようと考えてみるとする。そうすると、フレームに上手く当てはまらなかったり、当てはめようとするともう一個ボックスを足さなきゃいけないことに気付いたり、みたいなことがあるかもしれない。

定規で長さを測るイメージで、理論を使う

生稲 : それを、むしろ見出すためにフレームワークなり、理論を使う。定規を当てはめるようなイメージですね。定規を当てはめるから、もうこれ以上測れない、とか、ここはまっすぐじゃない、ということが見えてくる。

それと同じように、測れないもの、説明できないものを見いだすことが、やはり理論の「使い方」としては正しいだろうと。無理に、現実のすべてを綺麗に理論の中に収めようとするのは、強引すぎる感がある。そういう綺麗な現実の「理論的」説明は、かえってものごとを覆い隠しちゃうんじゃないかなと、僕は思うんです。

長地 : なるほど。

理論で説明できないことこそ、大切にする

生稲 : 現実の問題に取り組みたいとか、現実の問題を自分なりに考え抜いて、自分が良いと思うことをやりたいと思う方も、ぜひ、理論はそういう風に考えて、使ってみて欲しいですね。フレームワークで説明するのはあくまでも現実の一次近似であって、思考を整理するためのテンプレートであって。

むしろ、そこから「何がはみ出るのか」に目を向けて欲しい。なぜ理論で、自分が取り組んでいる問題を十分に説明できないのか、っていうことを考える。それが、多分大事な、理論を使う意義なんじゃないのかな、と思うんですね。

理論をファーストタッチとして使う ― はみ出ることは見越しつつ、とにかくまずは一回使ってみる

生稲 : 僕はWATNEYの「経営学入門」の経営戦略論のパートで、沼上幹先生の『わかりやすいマーケティング戦略』を使いながらお話ししましたけれど、あの本では、まさにそういうことを何度も仰っていると思うんです。

たとえば、あの本で一番すぐに僕が思い出すのは、業界内のポジション別の競争戦略という章。あそこでは、リーダー、チャレンジャー、フォロワー、ニッチャーという、四つの類型が説明されている。正確に言うと、チャレンジャーを二つに分けるので、五つの類型ですけれど。

本の中で競争戦略を詳しく説明した後で、沼上先生は「その通りの企業なんかないから、あくまでもこれで一時近似をして、それとズレる部分とか、もしくは、自分の会社や事業は、それとどこが違うのか、ということを考えるところから、より実践的な思考や問いが始まるんだ」ということを仰っている。あの本の他の章でも、同じようなことは何度も書かれているので。

こう考えると、やはり、理論を最初のファーストタッチとして使うというのがありえるし、大事かな、と。現実が理論からはみ出ることを見越して、まずは一回使ってみる。

長地 : なるほど、面白いですね。

生稲 : さっき言った話、一回抽象度を上げるというのは、まさにそういうことを狙っているとも言えるんじゃないかな。理論という、すぐには使えないものに一旦上げてみる。一旦、理論の俎上にあげるから、理論が「使えない」現実が見えてくる、ということかもしれない。

理論を使う際には、まずは素直に、理論を当てはめてみる ― ただし、理論からズレる部分をなかったことにしない

長地 : そうすると、ビジネスパーソンで、自分の日々の仕事に経営学の理論を使いたいと思っている人の立場で考えると、WATNEYの映像授業でも、大学やMBAでも、学んで、それをまず一回素直に当てはめてみる。

ただ、それで当てはまらない部分が出てきたときに、そこに目をつぶって、すべて綺麗に当てはまりました、とはしないで。

理論が当てはまらないかもしれないことを意識しつつも、とりあえずは当てはめてみる、みたいなことが、理論を使おうとする人の、最初の態度といいますか、気を付けておくべき点になるんでしょうか?

生稲 : そうですね。嘘だと思って、というのは言葉が悪いですけれど。まずは使ってみて。

ただし、理論やフレームワークを使う中で、そういうズレる部分をなかったことにするのは、多分研究者も、実務の方も、使い方としてはあまり良くないスタンス。

理論に当てはまらないものは存在しないというのは、やっぱり不健全だと思うんです。むしろ、理論に当てはまらない現実と誠実に向き合う。そうやって、理論に当てはまらないものを見出すために、とりあえずは使ってみる。

学ばないと、当てはめられない

生稲 : そういう思考を走らせるためにも、手前味噌ですけれど、理論を学ばないと。現実を理解するときに、理論をどう当てはめて良いのか。定規を持っていないと、そもそも定規を当てることができない。定規を当てないと、曲がっているとか、奥に引っ込んでいるとか、分からないので。

長地 : そうですよね、たしかに。

生稲 : そういう意味では、ツールとしての理論とかフレームワークを持っておく。

「答え」探しの学びの姿勢だと、かえって効率が悪い

生稲 : さきほど長地さんが仰った、答えをすぐに出してくれるとか、もしくは見せてくれるものだと、基本は事実と説明の一対一対応になりやすいし、Q&A方式の一対一対応だと、思考の走らせ方としてかえって効率が悪いというのが、僕の基本的な考え方です。

多分、注意深くみていくと、「答え」のパターンみたいなものが見えてくる。その答えのパターンみたいなものを整理して、我々的に体系立ててつくっているのが、フレームワークとか理論、それを順序よく整理し、説明しているのが教科書なんだと思うんです。

だから、われわれも個別の実証研究では、一個一個の事象に対する「答えっぽいもの」を考えることをやっている。でも、それをただ、「僕が調べたこの現象ではこの答えで良かったとか、こうあるべきだったと思う」という結果をただ積み重ねていくと、みんなバラバラになっていってしまう。そこでベースとなるような理論が意識的に使われていると、経営戦略の理論とか、経営組織の理論とかに、束ねられていくんです。

それを僕たち研究者は、学会とか、研究会とか、あるいはジャーナルという範囲の中で、常にやっているので。結果、いろんな事実もしくは現象を、結構少ない道具立てで説明することに長けることになっていく。

だから、毎回毎回ゼロから考えるんじゃなくて、理論という土台に乗っかって、既にある理論で説明できそうなことは脇によけて、考えるべき事柄に焦点を絞って議論する。それこそ「巨人の肩の上に乗る」という言葉があるけれども、大げさにいうと、経営学の研究者や社会科学者がつくっている理論の総体をベースにしながら、研究者は議論をする。

でもこれは研究者にしか当てはまらないことではなくて、実務の方にも当てはまるのかな、と。実務の方が理論を学び、自分の現実に当てはめることで、自分の目の前の現象の何が新しくて、何が説明しきれていなくて、本当に考え抜かなきゃいけない要素とか要因は何なのか、っていうことが見えてくる、と。そうなるといいなって僕は思うんですよね。

理論の使い方は、研究することで身につく

長地 : たしかに。そうすると、WATNEYで学んでくれているビジネスパーソンとの関係という方に繋げますと、僕はWATNEYの事業で大学院を代替しようとか、破壊したいわけでは全然ないので。大学院には、ぜひどこかのタイミングで行ってもらいたいというのもふまえまして。

お話をうかがっていると、ビジネスパーソンが独学や映像授業だけで、上記の力を身につけていくのは、かなり難しいのかな、という印象もありまして。

やっぱり、どこかの段階で大学院のゼミのような、密なインタラクションのなかで、たとえば論文を書いて発表して否定され議論して、また考えて、のような。力を身につけるために一番いい方法としては、やはり論文を書く、ということになるんでしょうか?

生稲 : そうですね。研究をして論文を書く。伊丹敬之先生が『創造的論文の書き方』という本の冒頭で書かれているんですけれど。やっぱり論文を書くということは、研究をするということと一体というか、論文を書くことは研究活動そのものなんだ、ということを仰っていて。

論文というアウトプットも大事だけれども、研究をするという行為が大事で。研究、すなわち論文を書く過程ですよね。それが、やはり相当いい訓練にはなると思うんです。

僕は今まで、主に学部生と修士の学生さんを指導してきたので。だから、ビジネスパーソンの方にそのまま繋がるかどうかは、ちょっと不安なんだけれども。

理論を習っても、それを現実に当てはめようとか、実証研究としてやろうとすると、やはり当てはめ方が分からないんですよね。

さっきの定規のたとえでいうと、定規を斜めに当てると正確に長さを測れない、というような。「定規って真っ直ぐに当てるもので、斜めに当てちゃ駄目だよ、目盛りが読めないでしょ」、とかいうことを研究指導の中で学生さんに伝えようとしている気がします。

理論には、いい使い方と悪い使い方がある

生稲 : 理論って、こういうことを言うと、ちょっとイヤな言い方ですけれど、使い方の上手い下手があるんですよね。

上手いというか、さっき言ったような、現実の問題を見えやすくする当てはめ方と、本当の現実の問題を見えにくくする当てはめ方がある。事実との整合性が悪すぎて、理論の俎上に載せても、何が問題なのかが分からなくなるというような悪い当てはめ方をしてしまう場合がある。

じゃあ、「良い当てはめ方」を身につけるにはどうするかというと、僕の場合だと、やはり先輩とか先生とかと議論をしながら身につけた。論文を書くために、もしくは論文を書くことを念頭に置いて、目標にして。自分が集めた事実に向き合って、独自性のある論文を書くにはどうしたらいいかを考える中で、理論の現実への当てはめ方、現実とフィットする理論の当てはめ方、どんなふうに理論を使ったら良いの、ということを身につけてきたんですよね。

ある状況でそもそもどの理論を使うのか、も考えておく必要がある

生稲 : そもそも理論も山程あるから、ある現実を理解するのにどの理論を使うといいの、という問題もある。競争戦略論の例を挙げると、僕はResource Based Viewが好きですけれど、それで全ての現実を説明できるわけではもちろんない。「業界構造分析とか、産業組織論的な枠組みの方が、むしろこの産業のこの状況を切るにはいいよね」というふうなことを考えるし、他の研究者と議論をする。そういう、どの理論を使うか、という道具の選択の話もある。

現状では、理論の使い方は使いながら覚えるしかない

生稲 : 理論の選び方もそうですが、理論を適用したときにどんなことが言えそうか、という見通しを持てるようになるのも、研究を続けていくと身につく力。現実とフィットする理論を使って、どんな問題に取り組めそうか、どんな主張ができそうかっていう見通しは、研究しながら覚えるしかないというのが、まだあって。結構、そういうことに関する教授法がシステマティックになっていない。

いわゆる戦略論を考えるときに、「どんな状況でも全部同じSWOT分析をやれば大丈夫です」と言う人は、ほぼいないと思うんですよね。あるところではSWOTが効くし、あるところではFive Forces Modelがいいかもしれないし、あるところでは、もうちょっと違うようなモデルとか理論が必要かもしれない。

だから、理論の選択、その使い方。そして、使ってみて分かった、はみ出る部分とか、説明しきれない部分の処理の仕方みたいなものは、やっぱり自分で手を動かして、考えて、言葉にしたり、場合によってはデータを使って検証したりしないと、なかなか身につかない部分も出てくる。

「理論をベースに現実を考える」ことを、既に上手くできるようになっている人との対話を通してブラッシュアップしていく

生稲 : WATNEYの授業では、ある分野があるとして、分野の中のいくつかの代表的な説明のロジックや理論、そして、その具体的な例というものを、映像を通じて学べると思うんです。

ただし、「じゃあ、それを実際に自分で使ってみよう」、「自分なりにそれを応用してみよう、考えてみよう」っていうときには、やはりもう一段ステップアップというか、知的なトライが必要で。それを一人だけでやると、結構大変かなと思いますね。

長地 : そうですね、たしかに。

生稲 : 一人だけではたいへんだから、企業の中の勉強会で、身近な人とやりとりするのでも、僕はいいと思うんですけれど。ああでもない、こうでもないって言いながら、説明しきれたね、納得のいく説明になったね、ということを、どこかの機会で持つと良いかもしれない。

そうした意見交換を、比較的安定してできる研究者とか、教員という人達とやるのが、大学院という場だと思うんですね。そこに行けば、理論をベースにして現実を考えるということを、一定のペースで、インタラクティブかつ重点的にやれるので。

理論の背景を知ることの重要性

長地 : 僕も自分で経営をやっていても、理論は使うところが、やはり難しいな、というのがありまして。

個人的な感想ですけど、ある程度、やはり理論が出てきた当時の文脈というか、研究者の問題意識みたいなものを、分かっている方がいいのかな、と感じていて。そういうものも含めて、大学院なり、WATNEYなりで学ぶ、ということかもしれないんですけれど。

つまり、こういう問題意識から、研究者はこういうふうな説明の枠組みを出してきたから、僕が今、自分の問題意識として自分の状況に当てはめているけど、それってでも、前提条件が違うから、この理論よりもあの理論の方がいいよね、というような。

その理論を理解するのに、その理論自体を理解するのはもちろん当たり前なんですが、その理論の背景を理解することも含めた方が、ビジネスパーソンが理論を使うときにも、より使いやすくなるんじゃないのかな、みたいなことがあるんですが。

生稲 : そうですね、僕も、そういうふうに考えています。

僕はあまり勉強していないので、たくさん例を挙げられないですけれど(笑)。一つの現象を説明するのに、いろんな視点や論理、理論があるというのがまず、大前提ですよね。

だから、競争戦略を考えるときにはこれしかない、たとえば、「どれでも全部4つのPで説明できます」と言う研究者も、実務家も少ないと思う。だから、現実を説明するにはいくつか可能性があって。どの理論を選ぶの、とか、どの理論が自分の問題を考え抜くための土台としていいのか、というのを、まずは選ばなきゃいけない。

そのときに、理論は結構、それぞれ背景を持ってつくられているから、現実を説明する時に得手・不得手があるんですよね。

具体的に、競争戦略論でいうと

生稲 : たとえば、競争戦略論でいうと、個別の事業はどうやったらお客さんに満足してもらって、利益を確保できるのかを考える。そういうことを考えなきゃいけないよ、ということをポーターという人が1980年代に言い始めて。そこから我々も研究を始めている。

事業という単位を前提に、事業のより良いあり方、より効率的な、より望ましい姿を考えるには、競争戦略論はとても向いている。

だけれども、それって事業を変えていくとか、事業からはみ出るとなると、途端に説明力が弱くなる。もしくは、説明できないことが増えていっちゃう。

すると、それ以外のことを考える理論ってどこかにないかな、というときに、その前にあったような、そもそもの経営戦略論というのは、事業という単位を前提にその中身を考えるんじゃなくて、事業を束ねた会社全体を考える全社戦略という枠組みが元々あった。だから、「そもそも事業とは」を考えたいときには、先祖返りして、全社戦略の理論を使った方がいいよね、というふうになってくる。

学説史の重要性

生稲 : 理論が出てくる順番だとか、出てきた背景が分かっていると、自分が考える時の土台の理論を選ぶときに、選びやすくなると思う。というのも、理論がつくられた意図を自分なりに追体験しながら使うようになる。「理論を使う」というのはあまり好きな言い方じゃないんですけれど、少なくとも、変な使い方とか、変な当てはめ方をしなくなる可能性が高いと思うんですよね。

だから僕は、そういう意図もあり、自分の大学でも経営学を教える時に、一回を使って、経営学の学説史というか理論史みたいなものを、学生さんに伝えるようにしています。

学問を系統樹のイメージで捉える

生稲 : 経営学ではなんでこんな議論をしているんだろうな、なんでこんなにいろんなことを考えるんだろうな、というのを学生さんに分かってもらえるように。

良い喩えか分からないけれども、系統樹で広がっていくイメージですね。学問って、基本。それこそ学説史の専門の先生には違うと言われるかもしれないけれど、経営学の起源の一つにあるのは、テイラーシステムとか、20世紀初めの科学的管理法というのがルーツだということは言っていいと思うんです。で、それがなんで100年経つと、こんなにいろんな分野に分かれるのかな、って、考えると、結構不思議。

働く人の動機付けの問題、ワークモチベーションの分野だけ取り出したって、今は本当にたくさんの分野があるし。ワークモチベーションを取り巻く組織論の議論、もしくは人間関係論、企業の中の人事もしくは人的資源管理の議論、さらには人的ネットワークとか、インフォーマル組織やバーチャル組織みたいな話とか。そういうところまでグワーッと広がってきている。だから、現在の広がった後の断面で見ちゃうと、いろいろありすぎて、勉強するにも理論を選ぶのもすごくたいへん。

でも、戻っていって、順番にある程度おさえていくと、あるときにこういうふうに分岐して、そこからさらに分岐して、みたいに理解できる。それこそ系統樹みたいに、ここからこの話が分岐して、だから今こういう話が盛んなんだけれど、元をたどると、AとBという理論は同じルーツだから、多分そこまで戻って違う理論の方に学んでいくと、自分の関心に近いものにたどり着けるかな、みたいなとか。

そうやって理論の系統樹を行きつ戻りつするときに、AとBの理論が枝分かれした理由が分かっていた方が楽しいし、自分の関心に近い方面に辿り着きやすい気がする。今言った戦略論の例で言えば、さきに事業をまとまりとして会社全体を見る理論があって、そこになにか問題や不満があったので理論として枝分かれして、それから事業の中身を見る理論が出てきたって分かる、という理解。この別れ方なんだなっていうのが分かると、戦略の中で何を学びたいか、とか、何が自分にとって切実な問題に近いのか、というふうな判断をしやすくなると思うんですね。

使えない、と切り捨てることのもったいなさ

長地 : なるほど、面白いですね。

そういう話をお聞きしていると、本当にビジネスパーソンが、「この理論は使えねえ」ってパーンと入り口で弾くのが、いかにもったいないか。

その先でもっとやれることはいっぱいあるのに、そこでパンっと弾いていたら、もうしょうがないな、もったいないな、というのがあるんですが。

生稲 : まあ、長地さんと自分が話すとそういう風な結論になっちゃいますよね。もったいないですよね。

だから、WATNEY全体もそうだろうし、僕の講義でもそれを目指しているんですけれど、ぜひ、いろんなもの、多くの理論を見てみてほしいんですね。アラカルト、とは言わないですけれど、様々な理論のとっかかりや可能性を感じて、その中から自分がもっと知りたいと思う方面を見つけて欲しいです。

たとえば営業職の方でも、ひょっとしたら組織論の動機付け理論とか、あるいはWATNEYなら服部先生の採用学とかが自分が抱える問題に近いかもしれない。つまり、「採用の話の方が、俺にとっては切実だな」って思うかもしれないですよね。

逆に、開発職とか研究職をやっている方が見ている中で、その人からすると、「組織論よりもむしろ戦略論とか、マーケティングの知識の方が面白いな」とか、その逆に「組織論が良いな」と思えるかもしれない。

経営学は100年以上経って分野がバーっと広がっていって。その広がった中で、今のリアルな研究者も含めて、いろんなことをそれぞれマニアックに議論していますから。

それを、教科書とかWATNEYを使って、全体をまず見る。こんなのがあるんだな、という俯瞰性を持ってもらえるといいな。そのとき、できればルーツにさかのぼりながら追えたり、その中で好きなものから入っていったりできると、学ぶ意欲もわくし、自分の目の前の現実との接合もしやすい部分、接点が増えていくんじゃないのかな、と思うんですよね。

一部だけを見て「使えないな」って切り捨てるんじゃなくて。われわれのような経営学マニアとは言わないけれども、経営学ファンに多くの方がなってくれると嬉しいかな、と思いますけれどね。

考えることは、楽しい

長地 : 僕は本当に、高校までと大学はわりと違うなって個人的に思っていて。大学での学びや研究は、本当に面白いから。

とくにWATNEYの先生の授業なんて、僕はもう毎日見ているので、単純に面白いから多くの人に見て欲しいと思いますし。大学での学びや、研究を受験勉強のアナロジーで考えるのをやめてほしい、というのが、根本としてあるんですよね。

生稲 : そうですね。受験勉強のような、言われたことをやるだけではなくなるのが、大学入学以降だから。

やっぱり、研究は自分が考えたいこと、考えなきゃいけないと思うことをやるものなので。それって、楽しいじゃないですか。人に言われたことをやるよりも、自分が選んだことをやるのって。

長地 : そうですよね、そうだと思いますね。

生稲 : 僕は実務経験がまったくないので分からないんだけれど。ひょっとして、実務の方で良いのは、自分の目の前の問題で悩んで、人の答えを使うんじゃなくて、できれば理論をベースにして、自分なりに答えを出していって、なにか結果が出ることなんじゃないかな、と。

それで、思った通りか、思った以上の成果が出たら、やっぱり「考えてよかったな」と感じると思うんですよ。そういう経験が増えていくと、考えることが楽しい。考えることが楽しいと、考え続けられる。すると、結果、人と違う仕事がしやすくなっていく。

長地 : たしかに、そうですよね。楽しいんですよね。僕も個人的に楽しいので。結構、考えるのとか、経営学が好きだったり。本当は、他の勉強をしないと駄目なときも、気がついたらビジネスモデルを考えているとか、経営学の本を読んでいるとか。そっちの方が好きなんですよね。

生稲 : ね。結構そうなんですよね。

僕は事例研究が中心なので、僕達が読む本も、やっぱり過去のそういう企業とか、企業家の歴史とか、そういうものを資料として読むんですけれど、やっぱり結構楽しい。それを自分なりに再構成して、なんでこうなんだろうな、と考えている時間は、やはり楽しい。

逆にいうと、そういうことを理解したいな、自分なりにもっとよく理解したいな、と思うので、理論を勉強したいなと思う。最近よく言うんですけれど、理論の本も歳をとってから読むのが楽しくなりました。大学院の時には読まされている感があったので(笑)。

昔は受験勉強の延長っぽく研究者を始めたので、これを読まないと発表できない、とか、これを読まないと先生に面倒くさいことを言われるっていう、結構、強迫観念があって文献とかを読んでいたんですけれど。歳をとったらそうでもなくなってきて。幸か不幸か、まだまだ勉強が足りないところはあるんだけれども、一応お勉強的なことは一通り、最低限は読んだかたちになっているみたいに思えるので。

そうすると、純粋に自分が考えるために本を選んで、論文を選んで読めるとなると、意欲も違ってくる。

長地 : そうですよね、楽しくなってくる。

生稲 : 楽しくなってきますよね。

再度、理論を使う難しさについて

長地 : さっきの、理論を使う、というところでもう一個ありまして。

やっぱり使うのが難しいんだなっていうところの話なんですけれど、たとえば楠木建先生の、『ストーリーとしての競争戦略』のアマゾンのレビューを一通り読んでみた経験があるんですけれども。

結構批判的なレビューも多いんですが、ほとんどは、理論の背景まで含めてちゃんと理解できていないから出てきているような、勘違いというか、本質的じゃない批判が多いのかな、という感想を僕は持っていて。

多分、あの本を買って読むような人で、読んで本の内容そのもの、それ自体が分からないということは少ない気がしているんです。

生稲 : 楠木先生は文章も分かりやすくて上手いですしね。

長地 : そうですね。ただ、本当に使うという段階になると、たとえば答えは書いていないので、「こうすれば必ず利益が出ます」という話ではないので、使うところでの難しさ、訓練の必要性みないなものが出てくるのかな、と。

つまり、理論を学ぶ準備ができていない人だと、たとえ読んだとしても、「使えねえ」っていう反応になってしまいがちなのかな、と。

ああいう話が、やっぱりなんでああいうストーリーとしての、みたいな打ち出し方を、あの時点での、文脈のなかで、する必然性があったのか、とか、そういうところまで含めて理解しないと。やっぱり使うとなっても、かなり難しいのかな、というのは、さっきの話に繋がるんですが。

生稲 : そうですね。やっぱりさきほど話した部分と重なる部分があると思うんですけれど、やっぱり、特に忙しい方とかは、今どうすればいいのかを教えてほしい、と。

まあ、答えですよね。

「明日とか、1時間後に、自分は何をすればいいですか」というふうな欲求が強すぎると、そこを見つけようとしますよね。何かを読んだときに。

長地 : そうですね。

生稲 : で、幸か不幸か、そういう欲求に答える書き物もあるわけですよね。

長地 : そうですね、ありますね。

生稲 : たとえば、困ったら現場百遍とか、レッドオーシャンを避けろとか、プラットフォーム化しなさい、とか。そういう文章って、あると思うんですよ。今だと、ネットも含めて。

長地 : そうですね。結構ありますね。

生稲 : これから儲かる何とかビジネス、みたいな。事業の種はここにある、とか。そういうのって、多分「答え」として書かれていると、ついそっちに関心がいっちゃうと思うんですけれど。

答え探しでは、違いが出ない。違いが出ないと、選ばれない

生稲 : でも、皆さんに考えてほしいのは、その答えでいいんですか、ということ。僕は意地が悪いので、そういう答えを書いてあるものを見て思うのは、「これってみんな見ているので、違いは出ないですよね」、ということ。

答えを誰かが出してくれて、その答えを、少なくとも自分が何らかの方法で専有できないのであれば、他者も見ている。他の人も見て、他人と同じことをし始めたら差がつかない。

差がつかないと、少なくともビジネスの競争としては、多分あまり効果がない。我々が何か製品やサービス、あるいは企業を選ぶっていうときには、違いがあるから選ぶので。みんなと同じ答えをベースにしていたら違いが出づらくなっちゃうという問題が、多分あると思うんです。

長地 : たしかに。

自分で考えることで、違いは出しやすくなる

生稲 : だから、やはり自分で考える必要がある。

つまり、自分で考えると、頭の中はお互いに見せあいっこできないので、なんでそういうことをやるんだろうな、ということが分からないまま、違いだけが出てくる。結果、あの人とか、あの会社とか、あの製品・サービスは何か違うよね、というものがつくりやすくなっていく。

だから、違いを出すためには、手法とか、考える道筋は同じでいいんだけれど、それを自分なりのおかれている状況だとか、持っている知識だとか、経験だとかを織り交ぜながら考える。そうやって、自分にしかない経験や知識を織り交ぜることで、それこそ、レシピが一緒でも違う料理ができる。

レシピ本としての『ストーリーとしての競争戦略』

生稲 : そう考えると、『ストーリーとしての競争戦略』はレシピ本ですよね。レシピが同じでも、違う材料を入れたら違う料理になっちゃう、というものなので。だからあえて料理のアウトプット、答えというアウトプットは、あの本であまり提示されていない。と、僕は理解しているんですよね。

たとえば、あの本には美味しいパンケーキのつくり方が書いてある。あの本を読んで、つくり方じゃなくて、美味しいパンケーキがある、と思うのは、やはり読み方として、僕はあまりいい読み方ではないと思う。

むしろ、そこにはパンケーキのレシピがあるから、パンケーキのレシピに、じゃあ自分だったら、なにか独自のものを加えてみる。今だと春も近いので桜の風味がいいなと思って桜フレーバーのパンケーキにしたらどうかな、とか。僕は結構しっとり系が好きだから、もうちょっとバターを多めに入れてみよう、とか、アーモンド風味を入れてみたらどうかな、とか。そういうアイデアを盛り込むことによって、パンケーキという結果も変わる。

繰り返しになるけれど、それがオリジナルな答えだから、他の会社と違うものが出てくる。違うから、ビジネスパーソンにとって「役に立つ」結果が出る。こう考えると理論を学んで使った方が、やっぱり違いが出しやすくなっていくんですよね。

長地 : それは面白いですね。

現実の理解の場面でも、理論を使うことで差が出てくる

生稲 : さっき言った、現実を理解するということに関しても、理論をベースにやると、現実の理解の仕方にも差が出てくる。現実の理解に差が出てくると、それに基づくアクションも違いが出やすくなってくる。

できればそれが意味のある違いになるといいんですけれど。でも、違いに意味があるかどうかが難しいんです、本当は。

意味のある違いを考え出すのは難しいんだけれども、まずは違いを出すことが大事じゃないかと思うんです。現実の理解が人とズレている。現状認識とか理解がズレているので、アクションのプランがズレてくる。アクションのプランがずれるので、実際に出てくる行動だとか、アウトプット、製品・サービスがズレている。結果、差別化されている。というのが、理論を持って自分なりに考えることの一つの面白さであって、ビジネス上の意味もあるんじゃないかな、と思うんですよね。

経営学の理論と、新規事業の立案との親和性

長地 : たしかに。それと関係するかもしれないんですけれど。WATNEYでやっているような経営学ベースの理論とかが、どこのお客さんに最初に受け入れられやすいかな、というのをずっと考えたり探したりしてきたときに、一つは社内研修というのがあるんですけれど。

更に言うと、新規事業を起こしたい、みたいなところでのウケが良いな、というのがありまして。

多分、僕の解釈なんですけれど、日々の改善とか、社内に答えや知見がすでにあるようなものとかも、それはもちろん非常に重要で。ただ、そういうところはたぶん、社内にすでにやったことがあるような先輩がいて、10年・20年選手がいて、じゃあその人に聞こうって、普通はなる。

ですけれども、たとえば新規事業をやりたい、やらざるを得ない、となったときに、別に社内の誰に知識の蓄積があるとかもない場合ですよね。

多分その人の考えた筋道として、新規事業立案では、抽象度を上げて考えた方が良いんじゃないか、考えるしかないんじゃないかな、みたいに思ってWATNEYを始めてくれているような人が、結構WATNEYで学んでもらっていても、満足度も高いのかな、というのがあって。

そういう新規事業と、抽象度の高い思考みたいなところの親和性があるのかな、というのを、今お話をお聞きしていて思ったんですよね。

生稲 : そうですね。今のお話の中でいくつか論点があると思うんですけれど。一つあるのは、やはり新しいことなので、誰かが考えなきゃいけない。

今のやり方とか、今当たり前のことをちょっと変える、それはそれで一つのやり方なので。インクリメンタルのイノベーションとか、改善活動って、われわれは言いますので。そういう変化を否定するわけじゃないんですけれど。

ただ、現実の延長線上だけでは不十分なわけだから。そもそも違うことをやりたいんだったら、一旦全然違うところに視野をぐっと広げてみて、実はこういう可能性があったよね、とか。暗黙のうちに、僕たちはこういう現実に囚われすぎていたね、ということが暴けるというか。そうした新しい可能性や暗黙の前提が見つかると、じゃあそれを外してみたらぜんぜん違うことができるかもね、となる。

たとえば、「うちは何々屋だと思っていたけれど」を疑うことですよね。任天堂っていう会社の場合、「うちはトランプとか花札の会社」だったんだけれど、もっと幅広く、玩具とか遊びというふうに視野を広げたら、それ以外のエレクトロニクスとかも入って来たらしいんです。そういう感じですよね。

社会科学の価値、現実に対する批判精神

生稲 : 大げさに言うと、社会科学の価値って、現実に対する批判的な精神とか、批判的な目の持ち方だと思うので。

自分の仕事とか、自分の会社とか、もっと言えば、自分の会社を取り巻く社会状況に批判的な目を向ける。これがなぜ起こるのか、本当に当たり前なのかな、ひょっとしたら変えられないのかな、という目で見る力を養う。

何が問題になりそうなのか、とか、何をみんながあまり意識せずにやっているのか、とか、何をみんなが当たり前だと思っているのか、ということを見いだそうとするときに、社会科学、その理論を知っていると、いろんなことが見つけられる気がします。

長地 : なるほど、たしかに。

携帯キャリア各社の値引き競争は、妥当な打ち手だったのか

生稲 : これはあまり例として良くないかもしれないけれど。

たとえば、携帯電話のキャリアって、ナンバーポータビリティのときに、自分のキャリアの方に来てほしいからっていうことで、みんなキャッシュバックとかをやったじゃないですか。もう、引き抜き合戦ですよね。相当お金を払うのでうちの会社に来てくださいって。でも、みんながそれをやったときに、要するに札束合戦になると、あまりいい競争じゃないんですよね。値引き競争なので。

ああいう現実を見たときに、本当にそうなのかな、それが妥当なのかな、という問いが立つ。いわゆる顧客のリテンションとかロックインということの方を大事だよっていうことは、我々はマーケティングとか競争戦略で議論しているので。

そういう違う可能性を理論から引き出せると、既存のお客さんに対するポイント還元の方が、よっぽどそこから逃れるにはいいんじゃないの、と考えられるようになる。少なくとも、戦略的な選択肢としてそれも考えなきゃいけないんじゃないの、と思いながら見ていましたよね。なんでそういうことをしちゃうんだろうな、って。不毛な競争になっていないかな、ということに気づく。

信じつつも疑うためにも、理論は役立つ

生稲 : 自分も含めて、現実にやっていることとか、取り組んでいることを、自分がやっているから信じたいんだけれど。信じつつも疑って、よりいいものを、今までやっていなかったことをやるために、どの前提がとか、自分達の思考や物の見方のクセとか、仕事の進め方とかを疑う。なにが自分達の行動や思考を縛っているんだろう、ということに気がつくためにも、視野を広げる理論という別の世界を持っておいた方がいいんじゃないのかな、と。

先ほどの例で言えば、価格競争以外の競争の方法があるんだっていうことを、競争戦略では言っているので。QCDFという4つの要素で、C以外もあるっていうことを。

そうやって考えても、すぐに答えが出ないかもしれないけれど。少なくとも違う視点を持つと、自分達がやっていることとかを相対化できるようになることは大事かな、と思います。

長地 : たしかに。

それぞれの持論を大切にしつつ、理論とすり合わせる

生稲 : 僕は金井寿宏先生がむかし教えてくれた、持論っていう言葉が好きなんですけれど。会社には会社の、もしくは会社の中で働く方一人一人の、持論があるという教えです。

それはやっぱり否定すべきものではないと思う。そんなに機会は多くないですけれど、僕がMBAの学生さんと勉強するときには、それをなるべく引き出すというか、話してもらうようにしています。

それは、僕にとっても勉強になるっていう意味が一つ大きいんですけれど。それを否定する必要は全くないですし、むしろそれをどうやって理論と接合するのかが、研究者なり教員なりの役割だと思うんです。

つまり、持論として言われている内容について、より多くの人が聞いて考えて納得がいくのかどうかを一緒に考える。あるいは研究として実証的にテストされてきたものとどう整合性があるのか、もしくはどう食い違っているのか、ということを一緒に考える。

そうした持論を持ち寄る場と補完的なのがWATNEYかなって。理論を中心にWATNEYとかのオンラインの教材などで学んで、学びながら持論と理論を接合することを自分で試みて。その上で、もっと持論を確からしくしたり、説得的にしたり、学問的に突き詰めたいときに大学院という場に行くっていうのがいいのかな、と。

だから、偉そうな言い方かもしれないけれども、ぜひ持論を持った人は、その自分の持論をより確からしいものにしていくためにも、理論とか学問を学ばれた方がいいんじゃないのかな、と。「俺は何々メソッドを持っているんだ」って言う人ほど。

自分が持っているメソッドがどれくらい妥当なのか、どこが今まで言われていることと違うのかっていうことをすり合わせていくと、ひょっとしたら学問的な発見がそこに含まれているかもしれない。

逆に、学問のオーソドックスな理論との比較をすることで、自分が持論の中で当たり前だと思い、成功のパターンだと思っていたものを改めて見直して、よりよいやり方を考える道筋がそこで浮かび上がってくるんじゃないかな、というふうに思うんですよ。

長地 : そうすると、持論がもうあるようなベテランのビジネスパーソンでも学ぶ意義がある、というところに繋がりますね。

生稲 : もし僕が一緒に勉強する機会があれば、そういうふうな勉強の仕方をしたいなって、個人的には思っています。

実践家と理論家の学びあい

生稲 : 一方で、僕には不十分だけれども理論しかないので。こっちが理論を出すことによって、「いや、生稲さんは頭で考えてそう言うけれど、実際にはこういうことは起きないよ」とか「現場ではこういうことが起きているんだよ」って言われたときに、じゃあ僕は理論をどう修正すればいいのか、ということを考えなきゃいけない。

逆に、「じゃあ、なんでそういう取り組みが、ある結果を生んだんでしょう」とか、「あるやり方が維持されているんでしょう」ということを僕の方から実践家に問いかけて。学ぶ方の持論の修正とは言わないけれど、強化とか補強をしていく。こうやって、お互いに実践家の持論と研究者の理論を組み合わせていくことが、多分学ぶということなんじゃないのかな、というふうに思うんです。

大学や大学院以外の経験では、僕だと事例研究が中心なので、いろんな会社の方にお時間をとってもらって、お話をうかがい、「なるほど、そういうことが起きているんですね」というインタビューをします。その時には、その企業なり、その方が持っている言葉遣い、テクニカルターム、ジャーゴン、社内用語と、その方が考える道筋を、当然、お話をうかがいながら学ぶようにしています。これは、実践家の持論に研究者が近づいていく動きですね。

ただし、研究者が持論へと近づいていくだけでは学び合いにはならないですよね。学び合いになるためには、逆に、実践家の方も、ある程度理論を学んで、研究者の側に踏みこんでくれないと。そうやって互いに相手の領域に入っていく動きをしないと、お互いの思考を深められないんじゃないのかな、というのが、僕の経験ではあります。

お互いのより良い学びのために

生稲 : だから別に、偉そうに、「勉強してから来い」という意味ではなくて。お互いに歩み寄って、お互いに自分が持っているものを教えられ、教えるということをやった方が、言葉は悪いけれど、効率良く学べると思うし。

そのためには、企業の方、仕事をなさっている方であれば、教科書、WATNEYのようなビデオ教材、あるいは大学院というところで、逆の立場、逆のスタンスで企業経営や社会を見ている研究者の言葉遣いとか、思考法(way of thinking)を身に着けてくださると、対話がしやすくなり、対話が実り良いものになるんじゃないのかな、と思います。

どっちかがどっちかに一方的に教えるとか、どっちかに合わせるというのは、一般的な人間関係と一緒で、あまり長続きしないと思うんですよね。

だから僕達が、あまり実務家の方に寄り添う言葉遣いとか、もしくはそういう答えに近づくような説明の仕方をあまりしないというのは、まさしくさっきの楠木先生もそうじゃないかな、と思うんですよね。あくまでもいくつかの例があげられてるけれど、あれは理論をイメージしやすいようにあげているだけであって、やっぱり伝えたいのは、理論の言葉であり、理論の道筋。

僕達はそれを、まずは提案する。同時に、実践家の方から起こっていることを聞く。われわれはそれらを混ぜ合わせて、「この現実はこういう理論で説明できるんじゃないのか」とか、「説明しきれない現象として、こんなことがまだ残るんじゃないのか」、ということを考える。

逆の立場でいえば、実践家の方は、自分がやっていることと理論の言葉を混ぜ合わせて、「理論でここまで説明できそうだな」とか、「理論をベースに考えると、こう言う論点もありそうだな」というふうになっていってもらえると、現実で起きていることと、抽象的に、あるいは理論の言葉で語られたことがミックスされた状態のものをお互いに持ち寄って、ワークショップとかディスカッションをやると、個人的には結構楽しいし、良い時間が過ごせるのかなと

フレームワークと理論の関係性

長地 : なるほど、ありがとうございます。

すみません、話題が戻るんですが、最初の方に出た、フレームワークと理論と、二つあったと思って、そこの関係性なんですけれども。ビジネスパーソン向けに分かりやすく整理しておきたいな、というのがありまして。

フレームワークで、まずは現象を整理するというお話があって、理論で見通しが立つというのがあって。理論の方は、おそらく原因と結果のセットで、それである程度見通しの予想が立つ、みたいなことなのかなと思っていて。

フレームワークは、それでいいますと、どうなりますでしょうか?

生稲 : 理論とフレームワークの違いという事であれば、フレームワークの方は現実にフィットすることを目指し、理論はそれをさらに抽象化することを目指す、と言えるんじゃないかな。

普通、研究論文って、第1章のイントロダクションで取り組む問題を説明し、次に第2章でそれに関連する理論を文献サーベイというかたちで説明します。この2つの章の準備を経て、自分として理論を踏まえ、どういうふうに、どんな現実を、新たに自分なりに考えますか、ということ説明する章が3つ目にくる。これがいわゆるリサーチデザインなんですが、その中に研究対象とフレームワークが出てくる。

つまり、理論を踏まえて、もしくは理論を依拠して、対象とする現象を説明したり、捉えたりするために、こういう変数とかこういう概念の関係として捉えるつもりです、ということの宣言が、フレームワークなんです。

だから、理論よりも、フレームワークの方が現実の説明なり、解釈に近づいている言葉とか、構成になっていると思うんです。だいたい、本とか論文を読むと。

現実に対して当てはめられやすいのは、フレームワークですよね。それでも多くの場合は、フレームワークはその背後に、何とか論という理論を持っているわけですよ。イノベーション論だったり、産業組織論だったり、ワークモチベーション論だったり、意思決定論だったりを持っている。

でも、さっきの理論の背景の話もそうなんだけれど、フレームワークだけだと、フレームワークがなぜそういう特定の概念を取り上げたり、特定の概念と概念の関係を想定したりするのかが分からない。

それを理解するためには、フレームワークの背後にある理論までさかのぼる必要がある。その理論をより理解するために、その理論がつくられ、研ぎ澄まされてきた歴史的背景も見ていく。というのが、オーソドックスな研究者の学び方というか。研究者が学ぶときには、理論の側から入ることが多いですね。僕はあまり理論家じゃないけど(笑)。

理論と矛盾しないかたちで、現実との接合性を高めるような、説明の骨組みですよね。まさに、その体系をフレームワークという。

だから、もちろん分野によっても違うんだけれども、基本は一研究一フレームワークといっていいんじゃないかな。本とかを研究書を読んでいると。

言い換えると、この研究のためフレームワーク(the framework of this research)とか、この論文のためのフレームワーク(the framework of this paper)はあり得るけれど、この研究のための理論(the theory of this research)や、この論文のための理論(the theory of this paper)は少ないですよね。この論文のための理論っていうのは、理論の本来の意味合いからいっても、あまり意味が無い。でも、この論文のためのフレームワークとか、この論文のための分析枠組みは普通にあるし、必要だと思うんです。

現実と理論との間、理論の階層性

長地 : なるほど。すると、抽象度の違いで、フレームワークよりも理論の方が、より抽象度が高いかたちでしょうか?

生稲 : とても直感的に言うと、複数のフレームワークを、ちゃんと統一的に説明できるのが、理論じゃないかな、と。

だから、ワークモチベーションなんかは、たくさん、それこそフレームワークとか、仮説モデルがあるんです。でも、それを貫くのは結局のところ、いくつかの、すごく根源的な現象や要因に関する理論。たとえば、性格特性とか職務内容とかに関する、人の動機づけに関する理論ですよね。外発的動機づけの理論とか、内発的動機づけの理論とか、いくつかの理論。

大理論、中理論、そして理論のさらに具体化されたものがフレームワーク、という階層構造で。そのフレームワークを使って、それぞれ個別具体の現象に対してアプローチしていくというのが研究者のスタイルですよね。

研究者は、現実・現象側から入る人もいるけれど、基本的には、たとえば俺は戦略論がやりたいな、とか、組織論がやりたいな、とか。実際はもうちょっと細かく、マニアックなんですけれど。まずは理論を選んで、その理論の研究成果を読み続ける中で、同じ分野の一つの理論の中でも、いろんなフレームワークを見て、自分の研究で使うフレームワークを作りあげていく。

「自分の文献研究対象、もしくは論文のスタンスからいうと、このフレームワークを改変して使ったらいいんじゃないかな」、というふうに、みんな独自のフレームワークを作って、提案してくる、というところじゃないかなと思います。

論文を読むのはそれこそ時間と手間がかかるので、実践家の方が論文を読む機会、特に仕事をしながら読む時間を取るのは、なかなか難しいと思うんですけれど。それでも、関心がある分野の研究論文を手に取ってみると、今言った理論とフレームワークの違いを見出せると思いますよ。フレームワークは、結構図とか表で表現されていることが多いので、見つけやすいし。

ただし、現実にピタッとくるフレームワークはなかなかないとは思うんですけれど。理論をかなり具体化したようなフレームワークの部分でいくつか見ていくと、いわゆるツールキットとして、それが使える部分が出てくるかもしれないですね。

と、ここまで話していて気付いたのですが、僕はあまり「理論を使う」という言葉は好きじゃないんです。すみません、個人的な好みで。その割には理論を使うという言い回しが多いですよね。

抽象度の高い思考の重要性

生稲 : ただ、さっきの「答え」の話とも重なってくるんですけれど、フレームワークとか、ツールキット、分析ツールをそのまま使うだけで留めない方がいいかな、と。現実を上手く説明できるフレームワーク、たとえばいわゆるテンプレに近いものは、みんながアクセスできて、知ることができるので、それを使って説明しても、あまり説明の独自性とか、新しい発見は少ないんじゃないかなと思います。

だからこそ、先祖返りをして、分析ツールの背後のフレームワーク、あるいはフレームワークの背後にある理論まで戻って、抽象度を少しずつ上げていって思考する方が望ましいかな、と。そうやって抽象度を高く持って行く方が、違うところに降りられる可能性が出てくるかな、と。

喩えて言えば、山に登っても、低いところで降りてしまうと隣の村に行くくらいですけれど、山の頂上までいった後で降りると、隣の県に行けたりするイメージですね。抽象度を一旦徐々に上げて、それから具体的な話に戻ってくると、全然違うアプローチで、本当に新しいことに気がついたりできるかなと思うんです。

長地 : 面白いですね。そうすると、より大きな仕事をしたいと思うビジネスパーソンは、より抽象度を上げた思考をするのがおすすめ、といいますか。

生稲 : そうですね。大きい仕事がなにかというのは、なかなか一意に言えないこともあるとは思いますが、抽象度を上げる、もしくは抽象度をコントロールして思考することは良いように思います。

目の前の現実を相対化するために理論を使う

生稲 : 自分の中でチャレンジングなことをしたときに、一旦そういう現実から遠ざかるような、もしくは現実を相対化できるような理論とか、もしくは現在を相対化できる歴史的な時間軸の長さみたいなものを意図的に持つことは大事じゃないか、って。目の前で起きていることが絶対視できなくなった方が、新しいことを発想するときには、自由に発想できていいと思うんですよね。僕自身、研究ではそういうふうに「現実離れ」を心掛けていますし。

「何か暗黙の前提にとらわれてこういうことを言っちゃうんだろうな」、というのを避けるように。避けるというか、暗黙の前提とか目の前の事実に囚われすぎないように、発想するようにしているんです、研究では。というのも、普通は何かに囚われて物事を見てしまうものなので。

僕の場合は、研究者という立場にとらわれてものを見ているとすると、経営という現象の捉え方が偏りますよね。研究者としての見方の偏りや歪みを、それこそ批判的に見直すためには、僕的には長地さんを含めた、実際に企業で働いたことのある方、企業を経営していらっしゃる方、あるいは、現場で働いている方の話を聞くということが必要なんです。「経営学の議論の中ではそういうふうに、自分はそう思い込んでいたけれど、当たり前じゃないな」となる場合がたくさんある。

さっき例に挙げた、携帯キャリアのキャッシュバックキャンペーンの話も、外で見ていたら先ほどのように偉そうに言うけれど、やっぱり中の人は当然、一生懸命考えて、意図を持ってそれをやっていると考えなければいけない。

ただ、その意図が、中の人が考えることが、僕達の理論となぜ違っているんだろう、という疑問を持つことが必要なんですよね。そうやって、中の人の立場で思考実験したり、中の人の話を聞いたりすることが、自分が学んだ競争戦略とか戦略論を批判的に検討することに繋がっていくと思うんですよね。

そう思っているので、僕は学生に経営学の講義で教えるときに必ず言うことは、「経営現象はもう本当に身の回りに溢れているから、それを題材に自分で考えて下さい」って。その時に、できれば講義とか、WATNEYのビデオとかで、学んだものを当てはめて見てみると、「おかしいな」とか、「結構上手く説明できるな」という現象をたくさん見つけられて、興味関心がわいて、もっと考えてみよう、となるかもしれない。

で、さらに考えるために本を読んでみようとか、考える題材を得るために人の話を聞こう、というふうに、それこそ研究が進んでいくんじゃないかな、と思うので。

長地 : なるほど。

実践家と理論家との建設的な対話のための、土台としての理論

生稲 : ちょっとまた話が跳んじゃうんですけれど。僕は今日お話をしたいなと思ってことの一つは、そうやって、相手の立場とか、相手が持っている持論とか、僕自身も含めて持っている思考のクセみたいなものを、やっぱり否定するのはつらいし、つまらないですよね、ということです。これは、別に道徳の先生的な意味での思いやりではなく、良い議論をして、理解や了解を作っていく上で。

やっぱり、否定から入ると、本当に建設的じゃないというか、破壊的な議論にしかならないので。そういうのって、やっぱり面白くない。

面白くないので、学問の世界ではあまりやらない。同じ理由で、実践家と理論家の対話でも、そういうことはやっぱりやらない方がいいと思うんです。

今申し上げたように、今の言葉でいうと「中の人」。中の人がどう考えているんだろう、ということを考えて、自分なりに再構成する。その中の人の意見を実際に聞いて、それと自分が再構成したことを照らし合わせていく。

ある意味、お互いに相手の土俵に乗っかりながら、「いや、でも、そういう状況だったら、こういう考え方もできませんかね」とか「なんで生稲さんはそういうふうに考えちゃうんですかね」ということを、お互いの考えるプロセスとか、それぞれが考えた結果の違いを交換する。それを、経営学という土台の上でやり続けると、「ああ、なるほどな」ということとか、「ああ、やっぱりこういうのもあるんだな」という感じで、現実に対する理解が深まっていく気がするんですよね。それが建設的な対話なんじゃないかな、と思う。

もちろん、研究者が一番それに優れているとは言いませんけれど。実践家でも、そういう対話が上手い方もいらっしゃるので。そういう方と話しをさせて頂くと、勉強になりますし、なにより楽しいんですよね。

そうやって、さっきの言葉でいうと、いろんな持論、いろんな経験に裏付けられた「答え」を、ちゃんと理解するためにも、やはり理論を学んでおくのがいいと思うんです。実践家なり、研究者なりの話を理解し、自分独自の理論や持論を作りあげるためには、いろんな人の話を聞かなきゃいけない。でも、いろんな人の話をただ聞いても、なかなかその思考を追体験できない。そこで、自分なりに再構成するために理論を持っていると、「なるほど、たぶんこういう考え方をするから、こういう主張をするんだろうな」というふうに理解なり了解が深まる。それを会議とか、研究の場でできれば、建設的な議論が進みやすくなる。それが結構、ビジネスパーソンにとって意義があるんじゃないのかなと、個人的には思っています。

ビジネスパーソン側から研究者側への貢献

長地 : なるほど。そう考えると、ビジネスパーソン側が研究者の方に提供できるというか、貢献できる部分として、理論を学んだ人でしたら、自分で現実に当てはめて、実際にやってみると思うんですけども、多分僕の経験でいうと、最初はやはり、かなり上手くいかない。

上手くいくはずなのに、上手くいかないということが、自分の経験でもかなりあって。

で、そこで再度また考えてみて、「あー、ここの重要度を読み違えてたんだ」とか、「これが効いてくるの?」みたいな。「この変数が効いてくるの、聞いてないよ」みたいな。

そういうのが、非常に僕の中ではあって。個人的にも、そこが日々働いていて面白いところでもあるんですけれど。もちろん、それで倒産したらどうしようもないわけですが。

そういうところを、研究者の方とディスカッションしたら、よりお互いに面白いのかな、と思ったりしました。

生稲 : そうですね。やっぱり実務の方が、実際に仕事の中で、企業経営の中で「こんなことが起きちゃったんだよ、生稲さん、知ってる?」って言われたときに、「すみません、知らないです」が普通なので。

でも、僕達は、その知らなかったことを、まずはちゃんと知るということが重要だし。知った上で、理論と照らし合わせて、それは完全な偶然なのか、関係性があるのか、十分起こり得たことなのか、といったことを考える。いわゆる、後付けだけれども、そういう判断はできる。

そうやって、起きたことを知り、整理し、関係性を考えておけば、同じような状況が次に起きるときにそれなりの備えができるようにはなると思うんです。こういうことを考えるクセをつけましょう、こういうことを考えるフレームワークや理論を持ちましょう、っていう提案をしたり、一緒に考えたりすることはできると思うんですよね。

経営と経営学の未来

生稲 : そうやって経営に関する建設的な議論を増やしていって、少しずつでも経営に関する知が広がり深まっていくと、理想論かもしれないけれど、多分そういう時代は訪れないけれど、経営について、ほぼほぼ我々は驚かずに、「ああ、そうなったね」と想定できる時代がくるのかもしれないですよね。想定の範囲内だから、やるべきことをちゃんとできるようになるという時代。

実際に一部の、とても限定されているところではそういうことも起こっているわけじゃないですか。たとえば工場の中の現場の、高度に確立された製造工程というのは、ほぼほぼ予想通りのことしか起きないようにコントロールされている。

経営の場面でも、いわゆるルーチンワークって、そういう領域だといえる部分があると思うので。ほぼほぼこの通りにやっておけば、ほぼほぼ問題がなく、ほぼほぼちゃんと仕事として完了するという領域があるし、現れてくる。

そういうのが、いわゆるルーチンワークが少しずつ増えていって、これもあれもほぼほぼ予定通りできるようになる、というのが増えていったら、残る仕事は、本当に予測がつかない、本当に考え抜いても分からないという事柄になる。われわれが経営という現象の中で考えなくてはならないものが、結果としてちゃんと見えてくるということが、ひょっとしたら経営学を学び、それを研究していくことの意味なのかもしれないですよね。その時にわれわれは、本当に考えなきゃいけないことに集中できるようになる。

繰り返しになるんだけれど、予測がつかないこと、ひとりで考えても答えを見出せないこと、そういうことだからこそ、「これには時間をかけてみんなで取り組もう」っていうふうにコンセンサス(合意)を作って、時間を注ぎ込んで、実際にそれを考える。

反対に、まったく勉強しなかったり、研究をしなかったりしたら、何もかもが予想外で、全てについて考えを巡らせる必要があるから、たいへんですよね。そういう世界には陥りたくない。お互いに。経営学の知識を持つ、ナレッジベースを共有するって、なにもかもが分からないということを避けて、本当に考え抜く必要があることを見定めるためなんじゃないんですかね。

長地 : そういう未来を目指して。

生稲 : 未来を目指して。一億総経営学者、とは言いませんけれど。

考えることを楽しむ、考えることは楽しい

生稲 : 日々の仕事ですから、やっぱり考えて、自分なりに楽しいと思うやり方をした方がいいと、僕は思うんですよね。有り難いことに、研究者はそういうふうな仕事をしているし。
自分が大学の仕事をするときにも、そういうスタンスでやっています。これ面白くならんものか、と。

それは研究者の頭でっかちな言い方かもしれないけれど、「考えることは楽しい」というのが、僕の暗黙の前提なので。考えないで体を動かせばいいっていうのは、逆に僕はとてもつらい感じがするんですけれどね。言われたことだけをやるっていうのは。

長地 : そうすると、ビジネスパーソンも、ぜひ考えることや経営学を楽しんで、というのがメッセージになりますか?

生稲 : そうですね。少なくとも、自分はこうやってニコニコしながら毎日やっていますけれど。でも、楽しいことがあるから続けられるし。誰か野球の選手が言っていたけれど、続けられるからできることが増えていって、また楽しくなる。

長地 : たしかに。

生稲 : やっぱり、自分なりに仕事、自分のやりたい仕事とか、やらなきゃいけない仕事のどちらでも、自分なりに楽しさを見出していく。楽しい部分ってどこだろう、っていうことを考える。自分が考える部分や要素が増えていくと、いわゆる自由裁量が多いと、楽しい。

ポジション的にそういうものが多い職場と、そうじゃない職場、もちろんあるとは思うんですけれど。でも、理想論かもしれないけれど、どんな仕事であっても考える余地とか、自分の工夫の余地って、見出せると思うんですよね。

そういうのを見出すためにも、WATNEYなり、大学や大学院というところは、かなりいいところなんじゃないかな、と僕は思います。

19/02/21
京都にて